案の定というか、年末年始というのはそれなりのまとまった休みがあるにも関わらず読書のような心の平安を促す時間というのはそれほど確保できない。そわそわと心が浮足立って、日頃やらなければいけない些事に目をつぶっている事への罪悪感などから窓を拭いてみたり、ポーチの掃除をしてみたり、アイロンをかけてみたりした挙句、疲れたと言っては酒を嘗めたりして、観た直後には内容を忘れているテレビを眺めて腹を抱えたりしている。
昨年中に読み終えようと考えていた『戦争と平和』であるが、最終部である第四部を読むのにひと月以上もかかってしまい、結局年を跨いで久しい今自分になってようやく読み終えた。

ナポレオン率いるフランス軍が一心不乱にロシア侵攻を進めるなか、クトゥーゾフ率いるロシア軍はボロジノの戦いで一矢報いたが、戦力温存を最優先としてモスクワを明け渡してしまう。フランス軍の侵攻の勢いによる混乱のか侵入してくるフランス軍には何一つ残さないという心構えで モスクワや周辺の市民は避難してゆく。そしてもぬけの殻のモスクワに入ったナポレオン軍は、兵士の規律と士気の維持が困難になってゆく。
結局、ナポレオン軍はモスクワに残された金品を抱えてフランスに引き返すのだが、兵站は間延びし、既にどちらに敵がいてどちらが目指すべき場所もわかぬまま闇雲に帰路を目指してゆく。ロシア軍は敢えて先回りをして敵せん滅を行おうとはせず、皆が怒りに任せて手にした武器を振り回しながら敵を追い払う事に従事した。結果、60万超の軍勢でロシアに侵攻したフランス軍で、生き延びたのは僅か5千人だったという。
この狂気に満ちた殺し合いの中で、主人公たちはあるものは兵士として、あるものは貴族としての立場と考え方に基づいて行動し、ドラマをパッチワークのように紡いでゆく。主人公ピエールという『変人』の籠に乗ってこの物語を駆け抜けてゆく体験は非常に愉快であった。
第四部の終わりに、トルストイの歴史観についての記述がある。なぜ人類の歴史上このような殺し合いが起きうるのか?時の指導者や、一部の天才や、プロパガンダを促す一握りの人間が原因の一部を成すとしてもなぜそれが、「自らは自由に考え行動する人間である」と考えている多くの人を一つの方向に向かわせてしまうのか?そもそも「方向」などあるのか?といった事について多くの紙面を割いている。
いまや地動説は常識であるが、私たちが両足で立っている、あるいは寝そべっているこの地面が高速(日本の緯度で時速1374㎞)で動いていると感じることができるだろうか?様々な局面において我々は自覚する事の無いある種の『法則』の中に取り込まれ、その『法則』こそが厳然たる事実であるという事なのかも知れない。
年末にそわそわと箒や雑巾を手にするのもそうした法則によるものか?
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