体育会系人類

Others 〜 その他 〜

人類には体育会系の人種と体育会系ではない人種という二種類の人間がいる。
というのは如何にも体育会系人類の言いそうな「物事を自分のわかりやすいようにざっくり分ける」性質からくる物言いである。
かくいう私も、中学から大学まで柔道部という『筋金入り体育会系』なのであるが、昨日『体育会系人類の行動学』に新たな頁を加えるような発見をした。
体育会系人類はそうでない人類よりも就活において有利であるという迷信があるが、この根拠とされているのは『体育会系人類は上司の命じた事に対して従順だから』という、『体型は重厚であるがその上には比較的軽いものが乗っかっている』と言わんばかりの性質によるものだと認識されている事が多い。
しかし、体育会系人類の帰趨するところは、単純にスポーツを通じて『年齢や階層に依存しない、人間そのものの強さへのリスペクト』が自然とできることだと信じてやまない。
人は『役職があるから尊敬される』わけではなく、そのポジションにいる能力があるために周囲から尊敬されているのである。そこに年齢という不確かな情報が必要あるであろうか?
時折、自身を物差しにして他者を『若いのにしっかりしている』とか『年配の割には残念な感じ』とかいった形で分類してしまう事があるが、そうした識別は『責任感』とか『困難を乗り越えてきた経験』というものが年齢と比例して濃厚になる訳ではないという重要な本質を見落としている。
また多くの会社では『人材の最適化』ができていないと感じる。
トルストイはその名著『戦争と平和』の中で、経験を頼みとしてロシア全軍を率いた総司令官のクトゥーゾフをして、「会戦の雌雄を決するのは」総司令官の壮明さや装備の優劣、兵員の配置等ではなく「士気という玄妙な力である」と言っている。
会社における人材の最適化とは『士気という玄妙な力』を鼓舞するものでなければならないと思うのである。
『体育会系人類』の会社人としての強みとは、「士気こそが明暗を別つ鍵である」ということ、「年齢や役職に関係のない本人の力量こをがリスペクトされるべき」だという事が身体に染みついているからなのではないか。
などと淵酔の最中、小用を足す静寂に思い至り、自画自賛しながら杯を重ねるのもまた体育会系人類の悪弊なのである。

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